天野進吾の一期一会|あまのしんご静岡県議会議員公式サイト

古希を経過しても尚、意気揚々・・・

地方政治に携って50年、自らの信念に固執しながらも「大道」を歩んでおります。
昭和40年代の初め、徒手空拳の若者が情熱だけで政治の世界に挑戦したこの半世紀の歴史に、未だ「終り」はありません。年々、人口は減少し、都市としての潜在活力が失われていく時代背景の中で、数年前から提唱し続けてきた「日本平のカジノ構想」は、「大型豪華客船」まさに本市が蘇(よみがえ)る「ラストチャンス」と位置付け、中傷に戸惑うこともなく活動しております。今暫く「この老兵」も消え去ることは」できません。

天野進吾はどういう政治家なのか?

天野進吾

昭和44年の初め、たった一人でアメリカを訪問。昭和62年、45歳で静岡市長選に。誰もが「無謀な戦い」と制止する言葉を振りはらい、私は確信を以って駒を進めたのでありました。

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天野進吾の天野進吾的ココロ

進吾スコープ

天野進吾が視る。語る。今日のできごと。まつりごと。

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天野進吾のコラム(最新5件)

矢張り情けない二階幹事長の感覚。

 参院選挙は終わった。しかしこの度の選挙結果はどの政党・会派にも幾分かの「欲求不満」を残す結果となりました。
 そんな中、テレビ東京の開票特番「池上彰の参院選ライブ」の中で、自民党の二階俊博幹事長との間で、悲しくも激しい論争が繰り広げられたようです。
 それは先月の末、徳島市内で行われた会合で、二階氏が「選挙を一生懸命頑張ったところに予算をつけるのは当たり前」と発言、野党から厳しい批判を浴びましたが、このことを指し、池上氏は「それは利益誘導型の政治手法ではないか」と詰問、対して二階氏は「私はが会長を務める団体に奮起を促すのは当然のこと、一生懸命頑張っていただいた人たちにそれなりの対応をするのは当たり前のことじゃないですか」と反論、更に池上氏が「ほーッ」とため息を漏らすと二階氏は「ほーて何ですか」と不快感を表したという。
 更に池上氏が「予算を餌にしているのでは」と畳みかけると、二階氏は「そんなゲスなことを云っているわけじゃない」と切れたという。
 この論争で明らかなことは残念ながら「天下の自民党の幹事長たるものの言葉とどうしても思えないところです。
 二階幹事長は私と同じ中央大学辞達学会の2年先輩であれば、率直に言って、些か残念に思った次第です。

2019/07/22

対韓輸出規制について。

 正直言って、この度の我が国の「対韓輸出規制の強化」について、口角泡を飛ばして反対する文在寅大統領の我田引水は残念ながら実ることはないでしょう。
 この度、日本政府が「半導体の製造に使われる化学製品」の輸出について「規制強化」したことに韓国側は猛反発、文大統領は「そのことは日本経済にとって大きな被害が及ぶことになる」と叫んでいますが、正直云ってこうした日本からの化学製品が屡々、お隣の「ミサイル製造」に利用されているのではないかと国際間では共通した「噂」でした。
 文大統領はご案内のように「内治」については完全に「死に体」、唯一、北朝鮮との「和解と親交」だけが「存在意義」であれば、北朝鮮への協力は最後の仕事なのかもしれません。

2019/07/17

ハンセン病の被害者家族への補償に対する「決断」は良かった。

 熊本地裁判決をもって「ハンセン病家族訴訟」はピリオドを打つ処となりましたが、政府のこの決断に私は心から拍手を送りたい。
 確かに時代の考察や法律上の問題点はありますが、これ以上、長引かせることは日本国として芳しいことではありません。
 総理の言葉の中にもありましたが、患者ご家族に対する偏見、差別はこれまで途轍もない苦しみを生んだことでしょう。
 この上は総理の声明の通り、一日も早くご家族と直接面会し、そのお気持ちを伝えてほしいと考えます。

2019/07/13

前日に続きます。

 昨日までの作文では徒に長くなりますので、これからは簡略して記載致します。
 さて、この季節、誰もが暑さしのぎにアイスクリームを口にするでしょう。そのアイスクリームを日本に伝えた男こそこの出島松造です。
 さて、米国に到着した松造は言葉も通ぜず、ひたすらご主人の後についてサンフランシスコの街を歩けば、体の小さな、しかも穢い着物を着、頭には棒切れのような物を乗せたその風変わりな姿に、人々はぞろぞろと付いて来る始末でした。
 その松造もアメリカ大陸に上陸して2年になれば、洋服に着替え、ちょんまげを切り落とし愈々、米国人になっていきました。
 小学校に通い、成績は先生から褒められましたが、松造は18才、12・3歳の小学生とは当たり前だったでしょうが、その後も松造は与えられた仕事に手を抜くことなく働いたとのことでした。
 渡米以来、9年を迎えた明治元年、徳川幕府の大政奉還、同時に渡航禁止令も解かれ、晴れて帰国する処となったのでした。
 背広に大きなリボンネクタイ、革靴に中折帽子、ったのでした日本人には見慣れぬそのスタイルに自分自身も気恥ずかしかったが、それ以上に横浜の変化に驚いたのでした。
 明治3年、伊藤博文が貨幣制度視察のため渡米するに際し、通訳として随行する等、その後の彼の活躍は「維新の開花」に大きく貢献していきました。
 大正12年の関東大震災に遭遇した彼は不幸にも唯一の後継者を失い、昭和3年、85年の長い人生にピリオドを打ったのでした。
 以上、小鹿出身の「出島松造」をご紹介しました。
 

2019/07/11

前日に続く・・・。

 凡そ半年、ソーヨさんの家に奉公、この間に「英会話」を学んだ出島にチャンスが訪れた。
 ソーヨ氏の帰国である。ソーヨ氏は帆船の船長に彼の密航を頼んだが、承諾せず、結果、一等航海士に金を握らせ、首尾よく倉庫に潜り込んだのでした。勿論、遠からず発見されたものの、既に出帆して3・4日過ぎていれば、今更引き返すもできず、一行はそのまま、サンフランシスコ港に向かったのでした。
 文久元年(1861)1月13日、桑港に到着、こうしてソーヨさんの親切と情けで密航は成功したのでした。 その結果、出島松蔵は維新を契機とした「日本の大回転」に多大な貢献を残していくのでした。
 慶応3年、福沢諭吉・小野友五郎の諸氏が渡米した際、諭吉から日本の現状を知らされ、英語を話せる人が欲しいから一緒に帰国せよと懇願されたが、「渡航禁止令」は解かれておらず、ソーヨ氏初め近隣の人たちも反対もあって、そのまま留まることを決めました。
 閑話休題(それはさておき)、この時、福沢諭吉は帰国後、静岡の両親に「松蔵の無事」をしらせたとのことでした。
 そこから彼の大活躍が始まりますが、以下は次回に・・・。

2019/07/10

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